この草原は、自然じゃない

特集

阿蘇の草原

第一回|草原の正体

千年、人が火を入れてきた草原。

全三回

この草原は、自然じゃない

足元の草原が、森になろうとしている

阿蘇を走ったことがあるなら、あの景色を知っているはずだ。外輪山の稜線に出た瞬間、視界が一気に開ける。どこまでも続く草原、その向こうに中岳の噴煙。あれほど解放感のある景色は、日本でもそうそうない。

だが、ひとつ聞いてほしい。あの草原が「自然」だと思っていないか。

答えは、否だ。

阿蘇の草原は、放っておけば森になる。日本の気候では、草地は時間をかけて低木が侵入し、やがて樹木に覆われ、森林へと移行していく。阿蘇も例外ではない。むしろ、年間2,000mmを超える降水量を誇るこの土地は、植物が育つには申し分ない条件が揃っている。何もしなければ、あの開けた景色は数十年で消える。

では、なぜ草原であり続けているのか。

答えは単純だ。人が、毎年火を入れているからだ。

炎を前に、火消し棒を持って立つ。野焼きは、火を入れることと同時に、火を制御することでもある。

「千年の草原」という言葉がある。平安時代の書物にすでに阿蘇の草原(牧)の記述があることに由来する。研究によれば、その起源は縄文時代にまで遡るとも言われている。つまりこの景色は、1万年以上にわたって人と草原が関わり続けてきた、途方もない時間の産物だ。

牧野組合という組織がある。阿蘇の草原は、多くの場合、地域の農家や地権者が集まって作る牧野組合によって管理されている。彼らは毎年春先に野焼きを行い、秋には翌年の野焼きに備えて輪地切り(防火帯を作るための草刈り)を行う。この作業の繰り返しが、草原を草原として維持してきた。

走っているあの草原は、誰かが守り続けてきたものだ。足元の草一本一本に、そういう時間が積み重なっている。

牧野組合の人々が、炎の行方を見守る。この火を毎年入れ続けてきた者だけが持つ、静かな目がある。

野焼きと輪地切り——草原を維持する二つの作業

野焼きとはなにか。字義通り、野に火を入れることだ。しかしその目的は単純ではない。

まず、枯れ草を焼いて取り除く。前年の枯れた草が残ったままでは、新しい草の成長の妨げになる。火が入ることで、ススキやトダシバなど牛が好むイネ科植物の新芽が一斉に出てくる。放牧の草地として機能させるために、野焼きは不可欠なプロセスだ。

もうひとつの目的は、森林化の防止だ。アキグミやサルトリイバラといった低木は、放置すると草原の中に侵入してくる。一度根付くと草刈りの邪魔にもなり、やがて高木へと育っていく。野焼きはその芽を、毎年リセットする。火こそが、草原と森の境界線を維持する手段だ。

阿蘇の草原管理は年間を通じた作業の連鎖だ。9〜11月の輪地切りが翌春の野焼きを可能にし、野焼きがあるから放牧ができる。その積み重ねが、あの景色を支えている。

野焼きの前には、輪地切りが行われる。防火帯を作る作業だ。草原と隣接する森林に火が燃え移らないよう、境界線に沿って帯状に草を短く刈り取る。阿蘇全域の防火帯の総延長は、600kmを超える。九州を縦断する距離に匹敵する作業量だ。しかも、その多くは急峻な斜面に沿っている。

刈り終えた跡が、来た道を示す。輪地切りは、終わりの見えない作業の積み重ねだ。
機械が入れない急斜面も、人が降りて刈る。

野焼きには、長年の経験で培われた知識と技術がいる。風向き、地形、湿度、火の勢い——それを読みながら、人が炎をコントロールする。一歩間違えば山火事になる。人類が火と向き合い、何千年もかけて磨いてきた技術だ。だから、初めてやろうとしてもすぐにはできない。地元の農家から技術を引き継ぐ必要があり、その継承もまた、今、途切れかけている。

凄まじい炎に見えるが、これは熟練の技術の産物だ。風向きと火の性質を知り尽くした者だけが、この火を扱える。
輪地切りによって作られた防火帯が、炎を制御可能なものにしている。

草原が持つもの——景観の奥にある意味

草原を守ることは、景観を守ることだけを意味しない。

阿蘇の草原には、1,600種を超える植物が記録されている。ヒゴタイ、ハナシノブ、サクラソウ——その多くは絶滅危惧種であり、草原という環境があってはじめて生きられる植物だ。鳥類150種、チョウ類105種。草原は、日本でも有数の生物多様性ホットスポットだ。森に変われば、それらは消える。

焼き払われた地面から、黄色い花が顔を出す。野焼きは破壊ではなく、更新だ。

水源の問題もある。阿蘇は「九州の水がめ」と呼ばれる。6つの一級河川の源流点があり、約230万人の水を供給している。草原は、降り注ぐ大量の雨水を効率よく地中へと染み込ませる。この機能は、森林と同等か、それ以上とも言われている。草原が消えることは、水の問題に直結する。

さらに、野焼きは炭素を地中に固定する働きも持つ。地球温暖化との関係で言えば、草原の維持は単なる景観保全ではなく、環境保全そのものだ。

草原は「きれいな景色」ではなく、機能する生態系だ。1,600種の植物、230万人を支える水源、地中に蓄積される炭素——野焼きと放牧によって維持されるこの場所は、多層的な役割を担っている。

走るフィールドとして阿蘇の草原を愛しているランナーは多い。だがそれが、こうした機能を丸ごと抱えた場所だということを、どれだけの人が知っているだろうか。

知ることから、関係は始まる。

あの景色がなぜそこにあるのか。誰が、どうやって守ってきたのか。第二回では、その「守ること」が今、どれほど限界に近づいているかを見ていく。

根子岳を背に、夕暮れの草原を駆ける。このフィールドが、人の手で守られていることを、走りながら知る人はまだ少ない。

取材・文|石川博己(7trails)

監修|公益財団法人阿蘇グリーンストック

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2026年9月1日公開