九州を拠点に活動するウルトラランナー・平田時正。40歳で走り始め、バックヤードウルトラという極限の競技の世界へ。なぜこの男は走り続けるのか——全10回の連載。
——術後65日、2026年8月14日
毎朝、目が覚めた瞬間に思う。
「もしかしたら走れるんじゃないか」
術後65日が経った今も、平田時正は毎朝その問いを胸に一日を始める。ベッドから起き上がり、右足を確かめる。蹴り足がない。足が引っかからない。あの感覚は、今日も変わっていない。
神経の損傷は、骨や筋肉の怪我と違う。折れた骨なら痛みが場所を教えてくれる。破れた筋肉なら腫れが回復の目安になる。しかし神経は違う。全身に張り巡らされた蜘蛛の糸のようなものだ。蜘蛛は自分の巣のどこが切れたかを感じ取れる。しかし人間は自分の神経を認識できない。どこが損傷しているのか、どこで信号が途切れているのか、わからない。治っているのかどうかも、わからない。ただ「動かない」という事実だけがある。
「なんで俺は走れないんだろう、なんでこの足は動かないんだろうって言いながら、毎日毎日同じ答えをもらってます」
すると隣でみきが言う。
「走れたら会社に行っとるやろ。もう仕事しとるやろ」
「まあ確かにそうね」
この問答が、毎朝繰り返される。
リハビリは3日単位でプランを組み、毎日修正を続けている。朝6時前に起き、近くの運動公園へ向かう。山の中の階段を何本もピストンで往復する。
3日というサイクルには理由がある。やりすぎたと感じたら翌日は休む。まだいけそうなら強度を上げる。壊れないギリギリの強さを常に探りながら、限界の手前で踏みとどまる。毎日その調整を繰り返している。ランニングの練習と同じ論理だ。平田にとってリハビリもレースと変わらない——どうやれば最速で回復できるかを考え続ける、ひとつの競技だ。8月1日には朝駆けの仲間と地元の山のトレイルに挑んだが、「このくらい、足がちょっと動かんぐらいやけど動かしやいいや」という軽いノリで臨んだ結果、帰宅してから36〜48時間ほとんど動けなかった。「本当に24時間走の大会に出た感じでした」。
8月7日、バックヤードウルトラ世界選手権サテライト大会への辞退を伝えた。
返答の期限が迫っていた。壊れないよう慎重に練習を重ねてきたが、「せめてこれくらいはできないと話にならない」という自分なりの基準があった。400メートルトラックを走ること。それだけだった。
キロ8のペースで400メートルを走る。それが今の全力だった。全力を出してもそれしか出ない現実を、自分の手で確かめた翌日の決断だった。
「人に伝えた段階で、もう負けだったんじゃないかな」
「無理かもしれない」と口にした瞬間を、そう振り返った。しかし辞退を伝えた後、不思議と気持ちが軽くなった。
「サテライトがないから、壊れようが別にもう大丈夫。何でもやってみようかな」
縛りが外れた。壊れないよう守っていた枠が消えた瞬間、むしろ自由になった。今日も朝6時前に起き、近くの山へ向かう。「もしかしたら走れるんじゃないか」と思いながら。

キロ5なんて余裕やろ
2013年、平田時正は公園で4歳の娘に負けた。
坂道を駆け上がる競走だった。当時40歳。荷物の配達の仕事で毎日身体を動かし、体力には自信があった。自分より先に走り始めていた妻も一緒だったが、「俺の方が走れるだろう」と高を括っていた。
結果は惨敗だった。妻にも、4歳の娘にも、置いていかれた。
「なんでこんなこともできないんだ。できるはずなのにできない。とにかく自分自身に腹が立ちましたね」
転機は数ヶ月後にやってきた。妻の友人から声をかけられた。「みんなで10月のマラソン大会に出ませんか?10キロの部でかまわないので」。ユニクロでTシャツと短パンを買い、河川敷へ出た。走り始めると、2キロで息が上がった。それでも「走れた俺すごい」と本気で思った。
2013年9月、筑後川マラソン10キロの部。記録は41分27秒だった。小学生の頃、校内マラソンで全学年トップになった記憶がある。40分は切れるはずだ——その根拠のない自信が砕けた。
「自分に腹が立ちました」
平田時正は1972年生まれ、福岡育ち。自他ともに認める「ゼロか百か」の性格で、何かひとつにこだわり始めると周りが見えなくなる。41分27秒という数字が、そのスイッチを入れた。
次の大会を探した。しかし近場のフルマラソンはすべてエントリー締め切り済みだった。調べていくうちに「阿蘇カルデラスーパーマラソン」に行き当たった。100キロのウルトラマラソンだ。
平田の計算はこうだった。
10キロを40分、キロ4分で走れるなら、100キロをキロ4分で走ると400分——6時間40分。さすがにそれは無理として、キロ5分なら500分、8時間20分。
「キロ5なんて余裕で走れるやん。坂道あったとしてもイケるやろ。そしたらオレ上位やん」
累積標高の意味も、補給の重要性も、その計算には入ってこない。単純すぎる計算だ。しかしその単純さが、普通の人間が尻込みする場所に平田を連れていく。
練習はひとりで始めた。コミュニティには所属せず、コーチもいない。ネットのブログやYouTubeを漁りながら独学で探った。会社の先輩から「月に300キロ走れば大丈夫」という助言をもらい、月間270〜280キロを走り込んだ。
やがて「インターバル走」にたどり着いた。スピードが劇的に上がった。しかし代償があった。
「脚が出来上がっていなかったので、何度も猛烈な肉離れを起こして歩けなくなりました。家族に怒られたりもしましたね(笑)」
それでも止まらなかった。走力が伸びていく感覚が、何よりも面白かった。
阿蘇の前にハーフマラソンを2本走った。玉名市いちごマラソンで1時間23分33秒。翌月の海の中道はるかぜマラソンで1時間22分47秒。走り始めてわずか数ヶ月の記録としては、異例の水準だった。
「このタイムが出て、やっぱりウルトラも走れるんじゃないかとさらに自信を深めてしまいましたね」
阿蘇100キロの話は、また別の回で語ることになる。
2015年2月、北九州マラソン。ここで平田は初めてフルマラソンのスタートラインに立った。このときも計算があった。42キロをキロ4分で走ると2時間48分。失速するとして3時間は充分切れる。ワンチャン2時間48分、奇跡が起これば2時間40分——。
「初のフルはこんな気持ちでした」
大会1週間前からふくらはぎの肉離れが起きていた。テーピングでぐるぐると巻き、スタートを切った。結果は2時間59分13秒。ギリギリサブ3だった。
この頃、誰にも言えない野望が芽生えていた。
「福岡国際マラソンに出たい」
走り続けるうちに10キロを35分台で走れるようになっていた。あながち夢ではないかもしれない——その炎が、自分の中だけで静かに燃えていた。

待ち伏せした男
しかし身体が、限界信号を出した。
足の甲に違和感が出始め、医師から「走行距離を制限しなさい」と告げられた。
「目の前が真っ暗になりました」
ロードを思うように走れなくなる。インターバルができなくなる。その絶望を、しばらく誰にも言えなかった。帰宅してみきに伝えると「仕方ないね」と言われた。「まあ確かにそうね」と思いながらも、平田の中では何かが燃え続けていた。
「山を走ると、足に優しい」という言葉に出会い、藁にもすがる気持ちで調べ始めた。宝満山——福岡市の南東に位置する山に、毎週土曜の早朝に集まる「朝駆け」コミュニティがあることを知った。さらにそのコミュニティの中に、際立って「ヤバい」人物がいた。脊振縦走80キロのスタート前に若杉縦走24キロを走ってから向かうような人物だ。そのランナーが毎週金曜の夜、「闇活」と称して宝満山を登っていることをブログで知った。
「待ち伏せするか」と思った。
ある金曜の夜20時前、平田は宝満山の駐車場で車の中から待った。やがてその人物が現れた。連れの女性がいた。後から分かったことだが、彼女はスパルタスロンを完走するウルトラランナーだった。
平田は後を追って声をかけた。
「自分は最長120キロくらいしか走ったことがないと伝えたら、『それならヒラタさんは1400キロ走れますよ』と言われて。その言葉が強烈すぎて、他のことはよく覚えていないんです(笑)」
その後、土曜の朝駆けコミュニティにも加わるようになった。
初めて仲間たちと山を走った日、平田は呆気なく置いていかれた。ロードで積み上げてきた走力が、山の下りではまるで通用しなかった。
「あの衝撃は忘れられませんね。全然違うんです、山は」
それでも、やめなかった。
周囲には「あなたは長く走れるから」と言う人もいた。平田はそれを聞くたびにこう思っていた。
「何も違わない。長く走りたいと思ったから、それに向けてやってきただけ。やるかやらんかの違い。それだけ」
この先に何があるのか、まだ見えていなかった。超長距離という世界も、バックヤードという競技も、平田時正の人生にはまだ登場していない。しかし公園で娘に負けた日から始まった「腹立ち」が、今も平田を走らせている何かの原点であることは確かだ。

阿蘇カルデラスーパーマラソン:熊本県阿蘇市を舞台に開催されていた100kmのウルトラマラソン。阿蘇の外輪山を巡るコースで、累積標高は約2,200m。1985年に始まり、2015年を最後に開催されていない。
玉名市いちごマラソン:熊本県玉名市で毎年3月に開催されるハーフマラソン大会。
海の中道はるかぜマラソン:福岡市東区の海の中道を舞台に開催されるハーフマラソン大会。
北九州マラソン:北九州市で毎年2月に開催されるフルマラソン大会。市民マラソンとして人気が高く、沿道の応援も多い。
福岡国際マラソン:1947年から続く国際マラソン大会。招待選手と参加資格を持つ市民ランナーが混走する形式で行われ、国内最高峰の市民マラソンのひとつとして知られた。
宝満山:福岡県筑紫野市と太宰府市にまたがる標高829mの山。竈門神社の御神体山として知られ、登山者やトレイルランナーに人気が高い。早朝に頂上を目指す「朝駆け」の文化があり、多くのランナーが集まる。
スパルタスロン:ギリシャのアテネからスパルタまでの約246kmを走る世界最難関クラスのウルトラマラソン。完走率は例年20〜30%程度。