速さへの執着、そして山へ

第三回

速さへの執着、そして山へ

九州を拠点に活動するウルトラランナー・平田時正。40歳で走り始め、バックヤードウルトラという極限の競技の世界へ。なぜこの男は走り続けるのか——全10回の連載。

「怖かったかもしれない」

走り始めてわずか数ヶ月で、走力は急激に伸びた。月間270キロを走り込み、インターバル走を独学で身につけた。記録はどんどん更新されていった。

しかし平田はその時期のことをこう振り返る。

「ちょっとでも当時のことを思い出すと、もしかしたら怖かったかもしれないですね。速くなりすぎて」

喜びより先に怖さがあった。

一般的なランナーが何年もかけて積み上げるスピードを、平田は信じられないペースで手に入れていた。自分でもそれがわかっていた。しかし喜びを誰かと分かち合う相手がいなかった。

「ずっと一人孤独に走ってただけなんで。全然知り合いが増えませんよね」

ランニングコミュニティには所属せず、コーチもいない。ブログで調べ、一人で走り、一人で大会に出た。みきによれば「友達が誰もいなかった。人のブログを見ながら『こんな人おるんや』みたいな感じ」だったという。喜びを誰かと分かち合う相手がいなかった。

2015年1月、第34回「茶のくに・やめ」マラソン大会10キロの部。記録は35分23秒、6位。

入りはキロ3分30秒前後。先頭とすれ違うと、皆きつそうな表情をしていた。落ちてくるランナーを拾いながら徐々に順位を上げ、残り1キロでスパートをかけた。1人だけ追いつけなかった。

「3分32秒/キロ……待てよ」

後日、大会のリザルトを調べた。自分より1つ前の順位のランナーが、福岡国際マラソンに出場していることがわかった。

「コレはひょっとしたら……」

その思いを誰にも言えなかった。走り始めて1年半。フルマラソンを1本も走ったことがない自分が福岡国際を目指すなど、いくら何でも——という気持ちが動いた。

しかし今、平田はその言えなかった理由を別の言葉で語る。

「責任に近いですね。福岡国際をやるとなると、それ相応の時間と労力と、怪我とか、そういったのを乗り越えていけるかっていう時に、いや、ちょっとそれは自分には無理なんじゃないかみたいな」

バックヤードを経験した今の平田にとって、「覚悟」とは「責任」だ。口にした瞬間、その言葉を背負わなければならない。それを果たせる自信がなければ、言えない。

みきはこう証言する。「国際の参加標準記録が当時2時間40分だったのが35分になった頃だったかな。ベストが40分で、1分縮めるならまだしも、プラス5分縮めるのは無理って言ってたような気がします」。

平田も頷く。「35分は切れないみたいな。自分で壁を作ってしまったんだろうなと思って」。

壁を作らなかった人間を平田は知っている。

「剣心くんって知ってますか。当時まだ47分くらいだった頃から知ってて、病気になったんですよね。ギランバレー症候群で。手足が一歩も動かせない状態から。その時に言ってたんですよ、『まだまだやります』みたいな。それが、ずっと練習して、怪我してって繰り返しながら、結局35分を切ったんですよ」

(剣心くんとは、るろうに剣心を彷彿とさせる髪型とキャラクターで知られる鹿児島のランナーのこと。)

「頑張ってください」と言っておきながら、心の中では「35分切るとかよっぽどよ」と思っていた自分がいた。

「でもやったからですね。そこら辺が違ったんだろうなと思って」

後に思えば、「覚悟がなかった」——それだけのことだった。

「このままでは骨が折れますよ」

足の甲に異変が起きたのは、走り込みを重ねていた頃だった。

春日公園などで練習していると、同じような症状のランナーから「バキッていきますよ」と言われた。病院へ行くと、医師から告げられた。

「走りすぎです。このままやれば疲労骨折しますよ。走行距離を減らしなさい」

「ここまでか、この辺くらいまでかみたいな。結構残念でしたね」

立ち止まる気はなかった。しかしどこを目指しているのか、急にわからなくなった。

帰宅してみきに伝えた。

「初耳だなと思って。聞いていたとしても、あんまり心に残ってない。『ふーん』っていうくらいだったんじゃないですかね」

みきの証言はあっけないほど淡白だ。当時の平田の孤独を図らずも表している。深刻に悩んでいたことを、妻は知らなかった。

誰にも見られていなかった。誰にも知られていなかった。その孤独の中で、次の一手を探した。

「桁違いのすごい人がいる」

「山を走ると、足に優しい」という言葉に行き当たった。

調べていくうちに、宝満山のブログにたどり着いた。そこには山の中で何十時間も動き続ける人間たちのことが書いてあった。家から見える、あの山の近くに、そんな世界が広がっていた。

「桁違いのすごい人がいるなみたいな。その人はどんな人なんだろうと思って行ったのが宝満山でしたね」

宝満山で待ち伏せし、山のコミュニティへと飛び込んだ経緯は前回語った通りだ。「それなら平田さんは1400キロ走れますよ」という言葉が、強烈に残った。

実は山との出会いはそれより前から始まっていた。足の故障でロードを走れなくなった時期、「山を走ると足に優しい」という言葉に行き当たり、試しに出たのが山岳マラソンだった。

2014年、金峰山山岳マラソン。初出場で15位。そのレースで、初めて見たものがあった。

「木段みたいなやつをわーって走って下る人がいて、それを見て驚いたんですよね。自分ゆっくり歩いて行ってたら、すごい音がしたと思ったらわーって走って下っていくんで」

翌2015年、同じ大会で4位。走って下ることを覚えた結果だった。

2016年10月、第2回修験道トレイルin東峰村のショートに出場した。鬼塚さん、宮崎喜美乃さんらがゲストランナーとして名を連ねる大会だ。「ゲストランナーたちの顔を見て、この人たちについていけるだろうと思ってスタートして。でも最初のトレイルに入るまでのロードでついていけなかったです」。

さらに決定的な出来事があった。

「ロングのトップに抜かれたんですよ。自分はショートに出てるのに。それがビビったですね。自分とかザックで水持って水切れで死によったのに、その人ボトル1本でしたもんね」

自分より長い距離を走っているランナーに、ショートの途中で抜かれた。天狗の鼻が折れた。自分の思い込んでいた「走力」が山の前ではまるで違う次元の話だとわかった。

完走率はショートが約30%。難関コースを10位で走り切った。

「前後していたランナーに聞くと、フルマラソンを2時間50分台で走るという人たちだった。きつかったですね」

それでも、山には不思議な引力があった。

「ロードから山に入った時に、以前は人と人、コミュニティが近すぎるのが苦手だったんですけど。山に行って『これってこんなに心地いいんだ』と思い出しましたね。それはロードと大きく違いますね」

ブログを見ながら「こんな世界があるんだ」と思っていた男が仲間を見つけた。

山が平田の世界を広げた。しかしその先に何があるのか、まだ見えていなかった。

第34回「茶のくに・やめ」マラソン大会:福岡県八女市黒木町で開催されるマラソン大会。10キロ、ハーフ等の部がある。その後名称変更を経て、2020年度より「茶のくに八女ハーフマラソン」として現在に至る。

金峰山山岳マラソン:熊本市の金峰山を舞台にした山岳マラソン大会。

第2回修験道トレイルin東峰村:福岡県朝倉郡東峰村を舞台にしたトレイルランニング大会。完走率が非常に低いことで知られる難関コース。

福岡国際マラソン:1947年から続く国際マラソン大会。招待選手と参加資格を持つ市民ランナーが混走する形式で行われ、国内最高峰の市民マラソンのひとつとして知られた。参加標準記録は時代によって変動している。

ギランバレー症候群:末梢神経に炎症が起き、手足の麻痺や筋力低下が生じる神経疾患。重症の場合は歩行困難になる。