超長距離から、バックヤードへ

第四回

超長距離から、バックヤードへ

九州を拠点に活動するウルトラランナー・平田時正。40歳で走り始め、バックヤードウルトラという極限の競技の世界へ。なぜこの男は走り続けるのか——全10回の連載。

——術後93日、2026年9月

術後93日。平田時正は先週末、165キロを歩いた。

7trailsが主催する自主練イベント「SOUTHPARK100」。福岡市の南公園の周回コースを舞台に、日曜正午までの時間を使って参加者が各自のペースで動き続ける。スタートは何時でもいい。

平田が走り始めたのは、金曜の夜11時だった。

なぜそんな時間に、と聞くと、こう答えた。

「自分は休職中で時間はたっぷりあるけど、普通の会社員だったら会社から帰ってきてこれくらいの時間からしか走れないじゃないですか」

同じ条件で、どこまでいけるか。それを確かめたかった。目標距離は決めていなかった。ただ日曜の正午まで動き続けた。結果は165キロだった。

「自分がやったことは誰でも真似ができること。時間さえかけて諦めなければできるんですよ」

見せたかった、と言う。正確には「見てくれる人がいたらいいな」と。

いつも平田はこう言っている。「自分がここで不甲斐ない結果を出したら、ここで記録を作ってきた人たちがナメられる。そんなことはできない」。自分の走りが、誰かの誇りと繋がっていると思っている。今回は逆方向だ。自分の走りで、誰かの可能性を示せるなら——そんな気持ちが、あの夜の出発を動かした。

「壊れてないですね。もっと壊れているかなと思ったんですけど」

COROSウォッチの評価は「イージー」だった。「心拍がずっとZone 1くらいで、おそらく低かったんだと思います」。165キロを歩いたというより、36時間動き続けた感覚に近かったのかもしれない。

体の回復については、ひとつだけ、大事な話がある。

週に1回か2回、朝起きると何も考えずにスタスタ歩ける瞬間がある。3分ほどだ。

「自分の中ではかなりの飛躍でしたね。何も考えずに起きて、不安のない状態なんです」

ただ数分経つと、また「踏み込めない」感覚が戻ってくる。3分だけの話だ。それでも、その3分が確かにある。手術から3ヶ月、初めて訪れた光だった。

弱い。道を照らすほどのあかりではない。しかし平田にとっては眩しかった。この光がこれからどう変わるか——太くなるのか、消えるのか、それとも道を照らすまでになるのか。この連載はその変化をともに追いかける。


阿蘇の代わりに

阿蘇カルデラスーパーマラソンは、2015年を最後に開催されていない。

平田にとって、阿蘇の100キロは終わりのない宿題だった。走り始めた頃から知っていた大会で、「もし続いていたなら2016年には必ず入賞する」という思いでずっとやってきた。しかしその舞台は消えた。

ならば、同じくらいの距離で戦える大会はないか。

「橘湾岸スーパーマラニックという大会があるのは知ってた。阿蘇でできなかった悔しさをここで試してみようというのがきっかけで長い距離に行きました」

2019年11月、橘湾岸スーパーマラニックP103に初出場した。コースの試走まで行った。万全の準備だった。

「一応勝てたけど、途中で抜かれて、最後のラストで譲ってもらった感じだったんですよ」

勝利の実感は薄かった。大会記録も更新できなかった。「それから毎回出るようになりました」という言葉の裏に、燃え続けるものがあった。

この時期、平田は独自の練習哲学を持つようになっていた。

「100キロ走るのに100キロ走らないっていう常識が、自分には間違ってたって分かったんで、年に何回かは100キロ練習で走るようにしてました」

山から自宅まで、唐津まで、北九州まで。100キロ超えを一人で走り、YAMAPに投稿した。

「みんなが驚いて『いいね』って言ってもらえるのが嬉しかったみたいで。そういうのがあったから一人でも100キロの練習は孤独じゃなかったのかなと」

主にロードを十数時間走り続ける。その孤独を画面の向こうの「いいね」が埋めていた。


20ラップ目、平田は寝ていた

バックヤードウルトラとの出会いは、Facebookのタイムラインに流れてきた一件の大会案内からだった。

「ラストドラゴンウルトラ」——熊本県菊池市の竜門ダム周辺を舞台にした、少し変わった耐久レースの名前が目に留まった。

バックヤードウルトラとは、1時間以内に6.706キロを走って同じ場所に戻る、それを繰り返す競技だ。タイムを競うのではなく、最後の1人になるまで終わらない。仮に45分で走り終えても、次の1時間がスタートするまで15分しか休めない。眠くなれば寝る時間を削るしかない。速さよりも、折れない強さが問われる競技だ。

調べていくうちに、バックヤードウルトラの日本大会「ラストサムライスタンディング」にたどり着いた。そこで、ある動画を見つけた。日本のランナー同士が終盤で壮絶な意地の張り合いを続ける映像だった。

「震えた」と平田は言う。レースが終わったとき、勝者に贈られるボードを掲げる姿が眩しすぎた。

「1時間で6.7キロって余裕でいけるじゃんって。休み休みやったら自分もいけるんじゃないかっていうのがありましたね。寝ずに我慢するのは仕事柄慣れてるわというのもあって」

みきは大会の意味がわからなかった。「ゴールがない大会でしょ、いつ終わるかわからない。2日寝ないみたいな感じで行くから、それ大丈夫?とは思いましたけど」と言いながらも、食料だけはめっちゃ準備していったという。

2020年11月21日、LastDragonUltra 1st。

19ラップまで走った。20ラップ目のスタートに、起きられなかった。

「本部側の運営に知り合いの方がいて話しかけられたりしたんですけど、当時はまだ知り合いも少なくて。大勢の中で一人テントが離れてたから起きられなくて終わってしまいました」

「あ、俺寝とるんや」で終わった。何をしていたんだろう、と思った。

自分はこの程度なのか——その思いがしばらく残った。

帰りの車で泣いた

翌年2021年9月18日、LastDragonUltra 2nd。

「去年も24時間くらいで眠くなって終わりやろうと思ってそんなに意識せず出てたら、あれよあれよという間に残ってしまって」

周りが一人また一人と消えていった。残ったのは3人。参加者たちに「誰が勝つか」と聞いたら、みな「潤子さんが勝つ」と言う。

「潤子さんって誰?って思って見たら、ガチムチかと思ったら普通の柔らかい雰囲気の女性で」

鈴木潤子。柔らかい雰囲気で、強そうには見えなかった。

「強そうじゃないのに強いんですよ、潤子さんは。そこに負けたっていうのが大きかったし、そうやって思ってしまった自分もすごく恥ずかしいですね」

28ラップ目頃、「自分が勝つやろう」と思えた瞬間があった。しかしその直後、本部の前で倒れ込んで動けなくなった。

30ラップ目、3人残ったうちの吉田潤平さんが言った。

「あんたらやめる気ないやろ」

そう言い残して、吉田さんは離脱した。2人になった。それでも勝てなかった。

帰りの車の中でよく考えた。

「むちゃくちゃ悔しくて。サテライト大会へ繋がるはずが、なんて結末になってしまったんだろうと思って。泣いてましたね。車を途中で止めて」

翌年のサテライト大会、鈴木潤子さんは来ない——そうわかっていた。ならば来年、他を圧倒して勝ってやる。「絶対勝っちゃる」と思った。この時点ではまだ、自分が翌年サテライト大会を走るとは思っていなかった。

そこからバックヤードが頭を占める割合が大きくなった。

「才能はないけど気合と根性で自分が折れなければなんとかなるんじゃないかっていうのがありました。速く走らなくていいし」

ロードの速さでも、トレイルの技術でもない。折れないこと。それが平田とバックヤードが出会った理由だった。

ここで少し時間を遡る。

「期待に応えたい」という気持ちが原動力になったのは、走り始めてすぐのことだ。「頑張って」「応援してる」と声をかけてもらうようになってから、「やらねばならない」という感覚が芽生えた。2019年4月、平尾台トレイルのショートで初めて優勝したことで、その感覚はさらに強くなった。LastDragonUltraへ向かう前から、平田の中にはすでにその重さがあった。

「自分がナメられるのは百歩譲って良しとしても、その大会でしのぎを削った仲間たちがナメられてるような気がして無性に腹が立った」

だからLastDragonUltraでの敗北は、ただの悔しさではなかった。あのステージで結果を出せば、サテライト大会——世界と戦う舞台——への扉が開く。その可能性を目の前で取りこぼした。それが悔しかった。

土壇場で踏みとどまれる理由も、そこにある。

「負けそうになった時に踏みとどまれるのは、多分そうして、みんなが今までのことがあったから。土俵際で踏ん張れるみたいなのはあります」

それが無いと、甘い。自分が弱いから、負けてしまう——と平田は言う。

だからテントに言葉を貼る。だから人の声を借りる。

仲田光穂さんの言葉——「過ごすを走るに変えるだけ」。武井明日香さんの言葉——「諦めるのは一瞬、後悔は永遠」。鈴木潤子さんの言葉——「それ、多分気のせい」。川満くんの言葉——「足が前に進んでいるうちは諦める必要はない」。そして自分で書いた言葉——「6日間走りたい放題」。

「お金も払わず仕事も休んで好きなことだけできるんだから、ポジティブに捉える。きついとか言っている場合じゃないと」

脳がやられて思考できなくなっても、視覚で思い出せるように。それが弱さではなく、強さだということを、この男は知っている。


SOUTHPARK100:7trailsが主催する合同自主練イベント。福岡市の南公園の周回コースを使い、100キロを目標に参加者が各自のペースで走る。参加者によっては100マイル(約165km)を目指すことも。

COROS:ウルトラランナーにも人気の高機能GPSスポーツウォッチ。長時間バッテリーと詳細なトレーニング負荷分析が特徴。

橘湾岸スーパーマラニック:長崎県を舞台に開催される超長距離ロードレース。コースによりP(ペニンシュラ=半島)、L(ロング)、E(エクストラ)など複数の部がある。詳細は本シリーズ後半の回で取り上げる。

YAMAP:登山・アウトドア向けのGPSアプリ。記録した山行をSNS的に投稿・共有できる機能を持つ。

LastDragonUltra:熊本県菊池市の竜門ダム周辺を舞台に開催されるバックヤードウルトラ大会。九州における同競技の先駆けとなった大会のひとつ。

バックヤードウルトラ:1時間以内に6.706kmを走り、最後の1人になるまで終わらないレース形式。詳細は本シリーズ第6回の競技解説を参照。

ラストサムライスタンディング(BULSS):日本国内で最もメジャーなバックヤードウルトラ大会。世界選手権サテライト大会への選考レースも兼ねる。

平尾台トレイル:福岡県北九州市の平尾台を舞台にしたトレイルランニング大会。