阿蘇の草原は、自然ではない。人が毎年火を入れ、草を刈り続けることでだけ、あの開けた景色は存在できる。高齢化と担い手不足により、その草原が今、急速に失われつつある。この特集では、千年続いてきた草原の成り立ちと危機の現状、そしてその保全に関わり始めたトレイルランナーたちの動きを、全三回で描く。第三回は、草原保全の現場に関わり始めたトレイルランナーたちの動きを。
阿蘇でトレイルランニングの大会に出たことがあるランナーに、聞いてみてほしい。「あの草原が、人の手で維持されていることを知っていましたか」と。
おそらく、知らなかったという答えが少なくないはずだ。
草原を走りながら、その美しさに感動する。稜線に出たときの開放感、風の気持ちよさ、どこまでも続く緑——それは本物の体験だ。だがその景色が、毎年誰かが火を入れ、草を刈り、汗をかいて守ってきたものだということを、走りながら考えるランナーはそう多くない。
それは責めるべきことではない。知る機会がなかっただけだ。
阿蘇市出身のトレイルランナー、森本幸司さんでさえ、そうだった。「三月から四月にかけての野焼きの時期に、何か知らんけど焼いて灰が飛んでくる。それだけを認識してたぐらいの感じです」。生まれ育った場所であっても、草原が人の手で維持されているという認識は、長い間なかったという。

森本さんは1980年生まれ、阿蘇市出身。学生時代から長距離選手として活躍し、2014年の福岡国際マラソンでは2時間23分41秒の自己ベストを記録した。その後トレイルランニングに転じ、現在は株式会社Local Gainに勤務しながら、阿蘇の草原保全と地域活性化を結びつける活動に深く関わっている。
牧野の中を初めて走ったのは、2012年頃の阿蘇ラウンドトレイルだったと森本さんは振り返る。「高岳とか、ああいうとこにはもちろん登ったことありましたけど、私有地のところは全然知らなかったですね。初めてそういう、牧野の中を走るっていう体験をした感じです」。
草原が減っていること、野焼きの担い手が不足していることを知ったのは、地元に戻ってからだという。阿部牧場の阿部さんや株式会社Local Gainの佐藤雄一郎さんとの関わりが深まる中で、現状が少しずつ見えてきた。「そういう現状があるんだっていうのがわかって、自分にもできることじゃないですけど、そういう意識が出てきたって感じですかね」。
走ることが、保全になる
どこまでも続く草原の中を、ランナーたちが走る。この景色は、人が守ってきたものだ。
トレイルランニングと草原保全を結びつける、具体的な取り組みがある。
ASO VOLCANO TRAILは、阿蘇のカルデラを100km走るトレイルランニング大会だ。ASO FIELDS RUNNINGが主催し、株式会社Local Gainが運営を担っている。この大会が他と一線を画すのは、コース設計そのものが草原保全と連動していることだ。大会のコースには、草原に広がる古道や輪地(防火帯)が含まれている。ランナーが走ることで道が踏み固められ、草が抑えられ、野焼きの際の延焼リスクが下がる。走ることが、そのまま草原の維持につながる設計になっている。

大会の参加費の一部は、各牧野や野焼きボランティア事業に寄付される。さらに、野焼きボランティアとして活動することを条件にした参加枠も設けられている。大会に出るために、草原の作業をする。そういうランナーが、実際に現れ始めている。
牧野の中に入ること自体、通常は許されない。口蹄疫やBSEなど家畜伝染病のリスクがあるため、関係者以外は立ち入ることができない特別な場所だ。大会期間中、牧野組合の特別な許可のもとでのみ、ランナーはその土地を走ることができる。

森本さんはこの大会の意義をこう語る。「全国から来ていただく人に、景色の良さと並行して、この景色の成り立ちみたいなのをお伝えできる機会がボルケーノだと思っている。自分の本当に足で走って目で見てもらうみたいな感じ」。

草原を守る活動は、ランナーたちに確実に届き始めている。輪地切りや野焼きのボランティアに参加するランナーが増え、牧野の現場では変化も起きている。「あんたあの走る人かい、みたいな。そういう人がどんどん増えてきてるイメージなんですよね」と森本さんは言う。「大体言ったら、はいはい、あの走るやつねみたいな感じにはなってきてますね」。
伝わっているか、という問いに、森本さんはこう答えた。「イエスかノーで言うとイエスだと思ってます。僕だけの力ではなくて、大会を通じてだったりとか、ボランティアさんであるとか、そういう人たちのピースが一つずつ増えてるなっていうのは」。
あなたも、草原に関われる

草原を守ることは、特別な人だけにできることではない。
阿蘇グリーンストックが運営する野焼き支援ボランティアは、毎年九州を中心に全国から参加者を募っている。初心者には研修会が用意されており、火の扱い方や作業の基本を学んでから現場に入る仕組みだ。必要なのは、山歩きができる体力と、草原を守りたいという気持ちだけだ。

参加した人たちの感想は、一様に似ている。「景色の良さはもちろん、草原のことを知る機会になって良かった」「野焼きボランティアにまた参加したい」——作業を終えたとき、草原との関係が変わる。ただ走るフィールドだった場所が、自分が関わった場所になる。

では、10年後の阿蘇の草原はどうなっているのか。森本さんに聞いた。「減っていくとは思いますよね」と、率直に言う。「ただ、シンボリック的なところはまだ、しばらく途絶えずにいけるのかなと。全部がダメになるみたいな感じじゃなくて」。
グリーンストックをはじめとする草原保全の活動が地道に続く一方で、森本さんは草原を取り巻く構造そのものが変わっていく可能性も視野に入れている。「一部企業がもう買い取って守っていくとか、行政が一旦買い取り、保全されていくような、そういうのになるような気はちょっとしてますね」。あくまで個人の見立てだが、草原と社会の関係が今後大きく変わっていく可能性を、現場にいる人間が感じ始めているということは、記録しておく価値がある。

トレイルランナーには、草原と親和性の高い素地がある。自然の中を走ることへの愛着、フィールドへの敬意、地域との関わりを大切にする文化——それはすでにトレイルランニングのコミュニティの中に根付いている。草原保全は、その延長線上にある。
走ることと、守ることは、矛盾しない。
阿蘇の草原を走ったことがあるなら、一度だけ考えてみてほしい。来年の春、火消し棒を持って、あの草原に立ってみることを。
煙の匂いの中で見る阿蘇は、走っているときとは違う景色だ。でも、同じ草原だ。あなたが走ったあの場所を、今度は自分の手で守る。それだけのことで、草原との関係は変わる。

千年続いてきた草原を、次の千年に届けること。それは、走る人たちにも、できることだ。






