九州を拠点に活動するウルトラランナー・平田時正。40歳で走り始め、バックヤードウルトラという極限の競技の世界へ。なぜこの男は走り続けるのか——全10回の連載。
2024年5月4日、午後4時。平田時正は長崎市の水辺の森公園に立っていた。
173キロ先のゴール、小浜温泉。累積標高3,200メートル。制限時間は24時間。橘湾岸スーパーマラニックL173——2019年の初出場から通い続けてきた大会だ。
主催者・創設者の通称「銀さん」は70代のランナーだ。萩往還などの超長距離レースを走ってきた人物で、平田が初参加した2019年のスタート前、初対面にもかかわらず大口を叩いてしまったことを今でも覚えている。あれから5年になる。
しかし今回は違う。大会記録の18時間17分を、一発で塗り替える。そのつもりで長崎に来た。
テーマを、自分に課していた。
「さすが、川満武徳が監督と呼ぶ男」と言わせる。
川満武徳——同じバックヤードの世界を生きる、平田がリスペクトするランナーだ。「速い人とか、長い距離走れるとかなら、いくらでもいると思うんですよ」と平田は言う。川満への評価はそこではない。
「記録じゃなく、記憶に残るんですよ。華がある」
DeadCowGully——オーストラリアで開催されるバックヤードウルトラの大会だ。川満はコネクションも何もない状態で、Facebookで現地の日本人を探し、一人で乗り込んだ。「やまのえんそうかい」を企画したり、普通の人が一歩引くようなところでも引かずに進む。「次にこいつは何をするんだろうかっていう楽しみがある男」——平田はそう言う。
そして、この橘湾岸と同じ日に、川満はそのDeadCowGullyを走っていた。
だから橘湾岸でみっともない走りをするわけにはいかない。「自分程度の人間が監督と呼ばれるレベルじゃないのに、そうやって慕ってくれる人がいるんだったら、自分がやらないといけない。監督のお前がその程度かみたいな」。
もうひとつ、平田にはこだわりがある。
「もう圧倒的に、やっぱり地元では圧倒的に強くないと」
九州を出れば、レベルが違う。九州で勝てても、全国・世界では通用しないかもしれない。だからこそ、地元では圧倒的な差をつけて勝てるくらいでないと意味がない。普通に勝っているだけでは足りない。そのくらいの強さを持って初めて、全国・世界の舞台を意識できる——平田はそう思っている。橘湾岸もそうだ。圧倒的な記録で、圧倒的に勝ちにいく。その論理で、平田はスタートラインに立った。
スタートの号砲が鳴った。

「川満武徳が監督と呼ぶ男はこの程度なのか?」
序盤は順調だった。前年L優勝者の小川さんと稲佐山まで最短ルートを駆け上がった。橘湾岸のルートを銀さんとともに作り上げてきた福岡のランナーで、「あなたが出てくる前は小川さんだった」と銀さんに言われたほどの存在だ。「気持ちよいペースで一時はキロ3分48秒」——ハイペースだったが、頑張っている感はなかった。
調子のいい時、平田はこう感じる。「何も考えずに足だけ動く」——その状態。それが惰性だ。その惰性が、失われた。
30キロ台、女神大橋へ上る坂の手前だった。踏み込まないと前に進まなくなった。「ちょっとまずいな」と思った。173キロのレースでは、この感覚の波は必ずやってくる。やってくるのはわかっている。ただ、コントロールはできない。
25キロのあぐりの丘CPを過ぎ、45キロの女神大橋エイドへ向かう間の話だ。「大会記録はもうちょっと難しいかな」——当時はそう思っていたという。今振り返ると「まだその程度やな、甘いな」と感じるが、その時はそうだった。
波が来るたびに、あの言葉を思い出した。
「川満武徳が監督と呼ぶ男はこの程度なのか?」
違う。この程度ではない。
「川満武徳が監督と呼ぶ男はこれほどまでのヤツか!」
そう切り返しながら前へ進んだ。
45キロの女神大橋エイドには、宝満山朝駆けの仲間たちがボランティアとして立っていた。お稲荷さんを受け取り、すぐにスタートした。
70キロの権現山を越え、80キロの樺島灯台CPへ。「小川さんに樺島灯台を越えると終わったようなものですよと聞いていたので、あとは余裕と思っていた」。しかしCOROSで先のコースを確認すると、累積標高がまだ2,000メートル近く残っていた。「え?こんなある?みたいな」。
小川さんが言っていたのは関門時間の話だった。「関門はあんまり気にしてないんで」と平田は苦笑する。
80キロを過ぎたところに川原老人憩いの広場のエイドがあった。通過チェックがあるため立ち寄ったが、靴を脱ぐのが面倒で、エイド食は受け取らずにそのまま出発した。
それが響いた。
小指、薬指、中指の先が痺れ始めた。
超長距離では、こういう波が必ず来る。「ダメだと思ってたのに走れる」——この繰り返しが、この競技だ。トリガーが何かはわからない。だからカフェイン、睡眠、誰かと話す、いろんなことを試してみる。何かが引っかかれば持ち直す。
脱水のサインだ。水が足りない。どこかで光が見えた。自動販売機だった。急いで近づいたが、工場の敷地内に入ってしまった。立入禁止——詰んだ、と思った。
「私の少しあげます」
声をかけられた。ヒエポンさんだった。宝満山の朝駆けコミュニティ初期からのメンバーで、平田より少し年上の女性だ。頻繁に会えるわけではないが、大会では同じ選手として走り、節目ごとにメッセージをくれる。たまたま前を通りかかって、平田の状態に気づいたのだという。アンサー600が混ざっている、と教えてくれた。ヒエポンさんが差し出した水が、神の水だった。
飲んで走り出すと、すぐそこだった。自転車道入口エイド(98キロ地点)——100メートルも離れていなかった。その時、平田は知らなかった。
八戸さんと村山隊長——佐賀のランナー・清原先生を応援するために駆けつけていた仲間たちだ——に手助けしてもらい、麦茶と塩分をゆっくり補給した。
「気持ちはメロス。俺は早く行かないかんです。行かなきゃならない理由があるんです」
115キロの茂木ぶらぶらCPは、後発スタート組の先頭が到着するまで全員がスタートできない。平田が着いてからでないと、みんなが待たされる。それがわかっていたから、足が止まりそうになっても前へ向かい続けた。

173キロをサブ17時間
115キロの茂木ぶらぶらCPに着いたのは、スタートから10時間50分後だった。
キロ6で走れば11時間30分かかるはずの地点だ。35分も巻いていた。計算していた3つのパターン——1時間のアドバンテージ、30分、15分——どれに相当するかを確かめた。35分。「微妙どうかな」というラインだった。
ここで迷った。5分だけ休んですぐ出るか、15分取るか。5分で出れば時間的には有利だが、崩れたら終わりだ。「崩れんようにするためには、15分取った方がいいな」と判断した。5分睡眠、5分呼吸、5分支度。ユーゾーさんに「5分後に起こして」と伝えた。大会直前にGPSウォッチの使い方を丁寧に教えてくれたランナーで、バックヤードの頃からの付き合いだ。目が覚めると、カフェインピル、モンスター、マカを投入した。
功を奏した。持ち直した。
最終CP、千々岩を出たのはAM8時8分だった。
「ん?一瞬訳が分からなかった」。1時間早かった。残りは9.6キロ。もう一度時計を見ても、AM8時8分。
「これ、大会記録を余裕で更新するやん」
欲が出た。「173キロをキロ6で走ったら17時間18分になる。サブ17時間でいけるんじゃないか」。また計算した。キロ5なら切れる。カフェインピルをもう1錠投入した。「いけるかいけないかわからないところにいつもいる。だから行ってみようみたいな」——迷ったが、歯を食いしばった。
「ここで歯を食いしばらんでいつやるんか」
見えてきた。カジさんが手を振っていた——宝満山朝駆けの仲間だ。時計を確認すると16時56分。
「よっしゃ!切れる、17時間切れる」
抑えていた感情が雄叫びとなった。「よっしゃー!よっしゃー!」何度も何度も叫びながら、ゴールへ飛び込んだ。
16時間58分23秒。大会新記録。
ゴール後、何かが切れた。横になってから動けなくなった。遅れて到着したみきは、その様子を動画に撮りながら笑っていた。
しばらく経って、動ける気がしてきた。頭の中に「妄想」が広がった。この記録を見た人はどう思うだろうか。自分はこれでどういうランナーになるんだろうか。「圧倒的に更新したんで、悔しがられるレベルじゃないぐらいの記録。1時間は縮められないだろうと。気持ちよかったですね」。
知り合いのランナーに連絡した。「やったけ」。返事が来た。川満武徳からだった。
今振り返っても、「ようやった」と思う。自販機で体操座りをしたことも、ヒエポンさんの水も、茂木での15分も——「それがあったからこの結果だと思うんで」。一発で塗り替えてやる、と言ってきた橘湾岸の記録を、この夜、ひとつ塗り替えた。
「これは塗り替えられますね。そんなに遠くないうちに」
と平田は今、静かに言う。そしてこう付け加えた。
「意気込んで、だいぶいかないと塗り替えられないですね。自分でも」

橘湾岸スーパーマラニックL173:長崎県を舞台に開催される超長距離ロードレース。L(ロング)は173kmのコースで、長崎市をスタートし橘湾沿いの岬を巡りながら島原市の小浜温泉を目指す。累積標高は約3,200m。
DeadCowGully(デッドカウガーリー):オーストラリアで開催されるバックヤードウルトラ大会。世界各国のトップバックヤーダーが集まる。
やまのえんそうかい(山の縁走会):川満武徳が企画するランニングイベント。熊本県水上村のスカイビレッジ——標高1,000メートルのクロカンコースで開催される。「縁」を大切にする川満らしい名前。水上村はランナーに特化した町おこしや高地トレーニング環境の整備でも知られる。
アンサー600:スポーツ時の水分・電解質補給を目的とした飲料。
バックヤードウルトラ:1時間以内に6.706kmを走り、最後の1人になるまで終わらないレース形式。詳細は第4回の競技解説を参照。