焙煎と稜線|コーヒーを焼き、山を走り、日々を綴る
2

走れないことについて語るとき僕の語ること

そろそろ曖昧にしていたあの時のことを話そうと思う。曖昧にしていたのは、かっこ悪さもあったし、トレイルランニングって危ないじゃん、と思われるのが嫌だったからでもある。実際は、まったくの自分の不注意だった。これ以外でトレイルで怪我をしたことはない。もちろんそれなりの装備と準備は要る。けどそれって、道路を走っていても、普通に生活していても同じことだと思う。

2020年5月24日。今も忘れない、5月にしては暑すぎる日曜日だった。あの頃の僕は上り調子でコンディションも良く、トレランにも慣れてきたとこだった。

調子に乗っていた。

トレイルの下りで吹っ飛んだ。

大腿骨、真っ二つ!

練習で飯盛山のエスケープルートを走っていた時のことだ。急な下りパートで足を引っかけ、前方に吹っ飛んだ。瞬時に半身になり受け身を取ったが、傾斜がきつかったこともあり、運悪く左膝を大きな木の根で強打した。

瞬間、2、3日で治るような怪我ではないとは思った。膝小僧が割れたかと思ったが、触ってみると割れてなかった。ただ猛烈に痛い。強い打撲か筋挫傷か?少し休んで歩こうとしたが、歩けなかった、、結局、一緒にいた石川さんと王子の肩を借り下山した。

病院に着くと、レントゲンとMRIを撮ると言われた。ところが、レントゲンを見た先生が「MRIはいいです」と一言。ああ、折れてるんだな、と悟った。でもどこが?

レントゲン写真を見て先生が僕に言ったことは「どうやったらこんな折れ方するんですか?」だった。ごもっともである。大腿骨が竹を割ったように真っ二つに割れていた。

マジかよ、、、真っ二つやん、、、大腿骨遠位端骨折というらしい、、、

手術一択、また走りたいのであれば

その病院では手術できないとのことで、佐田整形外科を紹介してもらった。スポーツに理解があり、膝の治療に強いと聞いていたからだ。

翌朝、診察を受けた。先生は案外軽い雰囲気で「わ~すごいね、どうする?」みたいな感じで、なかなか見ない症例にワクワクしてるようにも見えた。こういう感じが苦手な人もいるみたいだが、僕はとてもポジティブに感じた。どうやって治してあげようかって気持ちを感じたからだ。

最初はL字のプレートで固定しようかと話していたが、なるだけ筋肉を切りたくないんだよな~と知恵を絞ってくれて、割れた大腿骨をボルトで両側から締める術式になった。このおかげで膝の両側を2cmずつ切るだけで済んだ。このときも「いいのあったよ~」とボルトを持ってきたから苦手な人はいるとは思う。。。

「ジョギングを楽しめるようにはなると思うよ、トレランは、、、」が先生の見解であった。

手術は一週間後

腫れが引かないと手術できないので、それまで一週間入院しても良いし自宅待機でも良いとのことだった。迷わず自宅待機にした。なぜならコーヒーを焙煎したかったからだ。その一週間はシーネで固定したまま入院中に販売するコーヒーをひたすら焙煎した。今思うとちょっと狂ってる気がするが、そうでもしてないと自分を保てなかったのかもしれない。

手術が終わり、目が覚めて先生の一言は「我ながら完璧な手術だったよ~ばっちり!」だった。

僕は先生のこういうところが好きだった。

術後1ヶ月くらいの画像だけど、こんな感じでボルトで締めていた。見事なオペである。

しかし術後の痛みは半端なかったねぇ。骨弄るとあんなに痛いとは。もう忘れたけどさ。

入院は2週間。まだ骨に体重をかけられない「ゼロ荷重」の状態だったが、コーヒーの焙煎をしなくちゃいけない。それだけの理由で、先生に頼み込んで退院させてもらった。やはり焙煎の仕事が好きだし、ポジティブな気持ちになれるから。

ゼロからでいい

松葉杖が取れたのは1ヶ月半後。自力で歩けるってのは想像以上に自由だった。ほんとうに自由そのものだった。

そこからプールでの歩行訓練や水泳を始めた。やっぱり身体を動かすの素晴らしい。一気に生活に潤いが出た。ランニングじゃなくてもいいかもとも思った。

この期間は、自分でも意外なほど焦りもなく落ち着いていた。今までのように走れるようになるかは考えても意味がないので極力考えないようにしていた。ぼんやりとしたイメージは持っていたけど目標は定めなかった。そうするとそれに縛られそうな気がして。

昨日より歩けるとか、昨日より膝が曲がるとか、そんな小さなこと、小さな勝利を掴んでいくしかなかった。

僕はまずネガティブに考え尽くしてポジティブな面を見つけるというのが癖である。最悪の場合を考えておくとほとんどのことがポジティブに感じることが出来るという、やや面倒くさいタイプの考え方なのも良かったかもしれない。もし走れなくなっても、何かしら別のスポーツを楽しんでいたと思う。そういうこともいつも考えていた。

けどやっぱり仕事、好きな仕事があったことが精神の安定をもたらしてくれた。焙煎機の前に立てば、脚のことは関係ない。豆と向き合い、お客さんに焙煎した豆を渡す。その繰り返しがあったから、自分を保てていたんだと思う。この時期に気づいたのは、自分のアイデンティティの大半は仕事で形成されているということだ。

待ってくれてる仲間がいたことも心強かった。

ランニングは人生そのものだけども、人生の全てじゃない。

歳のせいもありなかなか骨癒合が進まなくてランニング再開の目処が立たず、結局ジョグを再開できたのは、それから半年後、12月になってからだった。

それでも走れると信じていた

運が良かったのは膝関節そのものは無事だったことだ。半月板や靭帯の損傷がなかったのは本当に不幸中の幸いだった。少し走れば痛みが出たり腫れたりで大変だったが、慎重に慎重に走り続けた。

うまくいかずにテンション落ちる時もあったけど、案外一晩寝ると回復するし、人の気持ちってその程度。その瞬間の感情に支配されてはいけない。目的地に辿り着きたいのなら尚更ね。元のように戻るではなく、今の状態からどれくらい進歩できるのか、それだけに興味を抱いていた。「人間万事塞翁が馬」、きっとこの大怪我が何かをもたらしてくれるとも考えていた。ま、そう考えないとしんどいですしね。

1年後くらいには、まあまあ走れるようになっていって、2年後にはトレイルレースにも復帰できた。水上マウンテンパーティではショートコースをサブ4、霧えびショートでは年代別(40代)4位!となかなかの好成績だった!(これ以降さっぱりな成績なことは書きません)

その後、フルマラソンも自己ベストを更新したし、100kmウルトラマラソンや100マイルのウルトラトレイルも走るようになった。この怪我を乗り越え、本当の意味で走る喜び、走れる喜びを知った。

走るって、走れるって最高なんすよ。自由そのものなんすよ。

僕は運良く、たまたま走れるようになったのかもしれないし、6年前、あのベッドの上にいた自分に何か言えるとしたら、たぶん「大丈夫、ちゃんと楽しく走れるようになるよ」くらいしか言えない。もうひとつ言えるとしたら、「もう少し強くなれるよ」くらいだ。

辛い時期もあったし不安な日々もあった。ただ少なくとも諦めることはしなかった。


友納理のアバター